かんばん娘、『ときの娘』

石場旅館の玄関をはいり、当館の奥にお進みください。みなさまは大きな柱時計をごらんになられるでしょう。渋柿の艶の、すらりと細おもての柱時計でございます。このものがたりの証人です。とくに名もない柱時計ではございますが、かりに「ときの娘」とでも洒落させていただきましょうか。

この「ときの娘」、針をこれより3,066,600時間ほど、巻き戻してみます。いまから35年まえの昔です。じつはこの物語を書いております私が、わが石場旅館で産湯をつかった頃でございます。35年といえば、子どもは壮年となり、壮年は熟年となり、世代が積み重なる年つきです。「ときの娘」が35年前に刻んでいたひと時と、なお刻み続けるひと時とに、隔たりさえ感じます。

インターネットという技術を用い、みなさまと、本州の北の端に近い小さな旅館とが、いまこうして、オンラインでつながっております。無数の情報を、瞬く間に共有できる時代になりました。このような時が来ようとは、みなさまも「ときの娘」も、当時は知りますまい。

このたび、みなさまと石場旅館がつながったのも何かのご縁。実直な歴史のほか、これといった物語もない弘前・石場旅館の歴史ではございますが、その歴史をたどる「ときの旅」に、ご案内いたしたく存じます。


さて、凛として几帳面な「ときの娘」の針は、いま35年前を示しております。まずは私が生まれた当時の、弘前と石場旅館を見てまいりましょう。
昭和の高度成長期
ちょっとのんびり、『ときの娘』


35年前―このころ旅館を切り盛りしていたのは、私の母親、つまり今の女将です。女将は第2次世界大戦の混乱期に生まれ、戦後の復興と経済成長の時代に育ちました。津軽平野にも大型のデパートやホテルなどが建ち始め、道路が整備されました。

日本中の景観が大きく変わるなかで、弘前は時代を地層のように残した古い町並みといえましょう。 このときすでに、石場旅館は創建当時からの老体で、古い建物を残しつつですが、やはりお客様が安心してご宿泊できるように、部屋を個室にしたり、部屋にバスやトイレの付いた新館を増築したり、建物の正面を改築したり、新しい食事のメニューを考えたりと、刻々と変化していく日本人の価値観や生活スタイルに対応しました。「ときの娘」はあいかわらず、物静かに、あの場所でお客様と私どもを見守っておりました。

私が物心ついた時には、女将は多忙を極めておりました。ですから私は女将のそのまた母親、つまり大女将と、接する機会が多かったようです。大女将は、日露戦争の興奮さめやらぬ明治末期に生まれ、大正モダンの明るい世に青春を謳歌し、第2次世界大戦の暗い世相を経験し、戦後は日本の慌ただしく驚異的な成長に驚愕しつつも、ときに苦言を呈しておりました。

忙しいとき、身の回りの変化が急なとき、時間が矢のように過ぎるという錯覚に、とまどうことがよくあります。この時代、日本全体がそうだったかもしれません。 わが「ときの娘」の淡々と刻む時の音は、ぶれることのない秩序を石場旅館に与え、時代を俯瞰させてくれたのです。
戦前の昭和
『ときの娘』と一期一会


「ときの娘」の針をさらに271,560時間ほど過去に戻してみましょう。今から約66年前の弘前・石場旅館です。このとし、日本海軍主力艦隊がミッドウェーで大敗を喫し、戦局がおおきく傾くなかで、若かりし大女将は身重となっていました。

不安定な世相のもと、弘前では人や物の往来が活発になっておりました。八甲田山の遭難と生還で有名な、陸軍第8師団の「軍都」として町が発展したからです。その発展を象徴するかのように、エレベーターを備えたデパートが建ち、洋風の建物や、洋装の女性が増え、町のさかり場が繁盛しました。石場旅館もその恩恵を大いに受けたことでしょう。

戦中の石場旅館は「陸軍召集軍用旅館」となっておりました。多くの軍部の関係者やそのご家族が、石場旅館に宿泊くださいました。旅館に残る宿泊者の看板が、当時の活況を今日に伝えております。

やがて日本は敗戦をむかえ、石場旅館は進駐軍の接収施設となりました。混乱のさなかに、身重の若かりし大女将は、どうやら無事に女の赤ん坊、いまの女将を生んだようです。そして新たな命と入れ替わるように、同じ月に大女将の姑、つまり大女将の母女将が静かにこの世を去りました。


軍人の出征、進駐軍の逗留、帰る者、帰らぬ者。人の出入りが激しかったこのころ、「ときの娘」は人々の出会いや別れを静かに見守ったことでしょう。相変わらず律儀に淡々と時を刻みながら。
『ときの娘』も知らない時代
江戸から明治へ


「ときの娘」がしめす66年前の時間から、さらに時代をさかのぼってみましょう。今からざっと129年前の石場旅館―おや「ときの娘」の針が、途中で止まってしまいました。

じつは、このころの弘前・石場旅館には「ときの娘」がまだ存在しておりませんでした。「ときの娘」を産んだ時計会社も、まだこの世に存在しておりません。時間をさかのぼってくれる目撃者が存在しないのでは、ものがたりになりませんね。

ここからのものがたりは、往時の細切れの記憶だけが、手がかりとなります。私が知っている話のほとんどは、今の女将や大女将から聞いたものです。そしてまた、大女将は前述の大女将の母女将から聞きました。実はその母女将こそが、弘前・石場旅館の創業者の妻だったのです。

石場旅館の創業者は、津軽藩の貧しいお侍だったようで、ご一新の際に廃刀した後、風呂敷に小間物を包んで、慣れない行商を始めました。なかなか「しなじい(根気強い)」人だったようで、大風呂敷を広げ弘前の城下で道行く人々に「かみのカンザシ、どんだ〜(お江戸や京のかんざし、どうですか〜)」などと声をかけていたかも知れません。やがて、ささやかな蓄えをもとに、小間物屋と旅籠を兼ねたお店を開業いたしました。石場旅館の始まりです。

ペリーが浦賀に碇を下ろして26年後。明治もすでに12年、まだ憲法も発布されていない過渡期に、試行錯誤で始めた商売だったのかも知れません。明治天皇が崩御された前年に、創業者の元武士も他界いたしました。幕藩体制の秩序が瓦解して、混沌とした中から新たに生まれた、文明の国にっぽん。その国とともに夢を見て、形となったのが城下町の石場旅館です。
いま、そして未来へ
『ときの娘』とともに


「ときの娘」の針は回り続けます。新しい文明の象徴として、石場旅館に登場した「ときの娘」は、創業者の元武士の死を看取ったのでしょうか。どうだったのでしょうか。いまもなお、几帳面にチクタクと時を刻んでおりますが。

おや。慣れない手でソロバンをはじいている創業者の場面から、にわかにパソコンのキーボードを叩いている私の姿に場面が変わりました。どうやら「ときの娘」が、針を現在に戻してしまったようです。様々な過去を収集して、眺めてみる。弘前・石場旅館の「ときの旅」はいかがでしたでしょうか。


「ときの娘」の針を今度は未来に先回してくれ、とおっしゃいますか?残念ながらそれはまだできません。このものがたりの続きをつくっていくのは、このホームページをごらんになられている、みなさまのはずですから。お会いできる日を、心よりお待ち申し上げます。さて「ときの娘」の体調がどうも、思わしくないようです。鐘が鳴らなくなって久しいのです。少しだけ休ませてあげたいと思っています。


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